雑談

自殺しないは主体性の欠如仮説

辛い世の中になっているので、死にたい人の増加傾向にあり
それと比例して自殺者も毎年増えています。

「死にたいなら自殺すればいいのに」という話を耳にします。
おっしゃる通りなのですが、死にたいけど自殺できないんだよという話を書いていきます。

仮定

自殺しないは主体性の欠如仮説です。

なぜ死にたいのに自殺しないかというと、主体性がないからです。
自殺という行為は限りなく主体的な行動です。
周りから死ねと強制されることは、ほぼないので
自分の意志でのみ、自分の行動でのみ遂行される行為です。

けれど、「死にたい」とかいう人は、今まで
親の言う通りに生きてきた
みんなが学校にいってるから行く
周りが勉強している、親から勉強しろと言われるから勉強した
周りが就職しているから、就職した。

こういったような他人の人生を歩んできた人たちだと推測します。

誰かに言われたらする、けれど自分から行動することが出来ない人が
「死にたい」とつぶやくけれど、自殺できない人たちです。

自殺はレベルの問題

自殺ができるかどうかはレベルの問題であると思います。
レベルとは人間としてのレベルです。

昔から主体的に生きて生きた人は人間としてのレベルが高いです。
主体的に生きてこなかった人は人間としてのレベルが低いです。

自殺は跳び箱でいうと10段です。
自分の命を断つという人間最高位の生存本能に逆らう行動ですから
跳び箱10段を跳べる人は、跳び箱8段や9段を跳ぶことができる人です。
主体的に生きてきた人は、人間レベルが高いので8段9段を跳んでみせます

対して主体的に生きてこなかった人は、跳び箱1段も跳べません。
練習してこなかったし、挑戦してこなかったからレベルが低いんです。
そういう人にとって自殺は不可能なのです。

勇気がないとか、覚悟がないとかではなく
能力がない、出来ない can’tなんです。

いくら意気込んだところで、跳び箱を挑戦したことない人が10段跳ぶことはできないんです。

自殺した人は貴重な人

この仮説に基づくと、自殺した人は人間レベルの高い人
主体的に生きてきた人です。

そういう人がいなくなるのは、世界にとて非常に損失です。

流行は主体的に生きること

昨今の流行は主体的に生きることです。
「学校なんかいかなくていい」
「起業しろ」
「好きなことをして生きろ」
「自分の大切なことを大切にしろ」

こういったメッセージが所構わず溢れています。

すると、こういったメッセージを受け取った人は
挑戦や挫折を繰り返し、人間レベルをあげていきます。
その中でも成功する人もいますが、自殺に追い込まれる人生になる人も多量に増えます。

人間レベルが高い人が自殺に追い込まれたらどうするかというと
自殺します。
自殺する能力があるからです。

自殺率増加は、人間レベルが高い人が増えたためではないかと考察できます。

昔は、人の言う通りに生きていればよかった。
・親の言う通りに生きて
・先生の言う通りに勉強して
・上司の言う通りに働く

これで十分に幸せになれましたし。
なので、昔の日本は人間レベルが高い人が育たなかったのです。
人間レベルが低いということはつまり、自殺できる能力がないということです。
昔は自殺する人が少なかった理由の1つだと考察できます。

他人に殺さるのは問題ない

死にたいけれど自殺しない人は、心の底では死にたくないと思ってるんじゃないの?と考える人がいるかもしれませんが、そうではありません。

もちろん、本能として生きたいという感情は多少あると思いますが、それが自殺を絶対的に引き止めるほど大きいものではありません。

死にたい人は、強盗犯に頭に銃を突きつけられて「殺すぞ」と言われても
普通の人と違って命乞いなんてしないです。生への執着は薄いので
殺すなら殺してもいいよという感じです。あなたの好きにしてって感じです。

なぜかというと、他人任せにできるからです。
ずっと他人の人生を生きてきた人ですので、他人が自分の命を奪おうとしていても構わないとなるわけです。
そして、それが楽なのです。
他人が自分の命を粗末にしようとしても気にならない、むしろ殺してくれて感謝くらいに思っているのではないかなと思います。

自分で自分の命の取り扱い方が分からない
それが、「死にたいけれど、自殺できない人」なのかなと思います。